2016年8月23日火曜日

ベニャミン・カセットの謎、ようやく終結!



ベニャミンが急死したのは、95年の9月5日。オイラは前月の末までジャカルタにいた。務めていた会社を辞め、独立50周年のダンゥット・コンサートを満喫し、8月末に帰国して、数日したら悲報が届いた。すぐにジャカルタへ向かうわけには行かず(何せ無職なので...)亡くなってしまったのは、どうしようもない。最高のインドネシアのアイドルを失った悲しみを抱えつつも、残された音源を漁るしかないと切り替えた。

残念ながらインドネシアでは、アーティストが亡くなったりしないと、旧作の復刻とかは、ほとんどされない。90年代は特にそうだった。最近は少しづつながらも、昔のアーティストの復刻がCD化されているが。それとて、インドネシア以外のリスナーを含めて想定したことだろう。

ベニャミンの死後、数か月、多くのカセットが復刻された。ほぼ、オリジナルのジャケとは無縁な編集盤であったが、既に市場では入手困難なアイテムが殆どだった。 しかし、時が過ぎれば、それらのカセットは姿を消していた。

当時、オイラが注目したカセットが「Yang Paling Enak」(左)。確か、プランテーションのM氏もポップ・アジアという雑誌に取り上げていた。しかし、どう見ても旧作の音源を一本にまとめた編集盤にしかオイラには見えなかった。必ずオリジナルのカセットが存在するやろ!苦節20年以上、やっとその正体がわかった。

左のカセットは、中、右のカセットのA面をAB面に収録したものだと判明。恐らくDIANレコードで80年代に録音されたものであろう。中、右のカセットのB面にはベニャミンとは関係ないアーティストが収録されている。ベニャミンの死後、中、右の音源を一つにまとめたのが左のカセットなのだ。ジャケはオリジナルの2本を尊重している感じもあるなぁ....

インドネシアのカセットではよくあることで、AB面同じアーティストにしないこと。何が目的なのかわからないが、そうしたカセットは、数おおくある。

最も注目したいのは、中、左のカセットには、ART.& Directorにリリック・アリヴォワのクレジットがあることだ。左のカセットにはその表記がない。チャンプルDKIで日本でもその名を知られた彼、当時はDIANレコードのデレクターで快作を世に送り出していた。これはオリジナル・カセットでなければ、知りえないことだった。 インドネシアのカセットは、如何にオリジナルが貴重であるか痛感させられた.....

左のカセットは、オヤジレコードにもUPしており、12万アクセス超えをしているから、インドネシア人も快作と認めていることだろう。ちなみにワルジナさんも「Yang Paling Enak」と言う曲を同じレーベルDIANからリリースしている。レーベルが同じだから使いまわしか...その辺はまた検証したいと思う。

20年超えでやっとベニャミンの傑作カセットの謎が解けた。ご協力頂いた、プランテーション店長M氏には感謝したい!!


2016年8月22日月曜日

青春の一枚!



オイラの青春の一枚であるBLue Rondo Ala Turkのデラックス・エディションなるCDが出ているのは、知らなかった。普段はワールドものしか意識してないからなぁ、今さらどうでもいい作品だけど、オイラの青春の一枚なので購入した。

思えば、THE JAMの解散は「なんちゃってMODS」を気取っていたオイラにはそれなりにショックだった。でもなぁ、「MODなバンドにホーンズを入れるのは、反則だろ」と思っていたオイラの前に登場したのがこのバンドだった。ズート・スーツに身を包み、なんちゃってラテン音楽を...世間はちょっとファンカラティーナも受け入れていた。

ズート・スーツと言えば、キャブ。そんな情報はあったのか、オイラはこのインチキ野郎たちにハマった。歌は下手、ノリだけでのラテン・テイスト。当時は、そう思った。スタイル・カウンシルがオサレで気持ち悪くなってたから余計に拍車がかかったのだろう。

自身の勢いが頂点に達して、83年にロンドンへ行く。目的はBLue Rondo Ala Turkのリーダー、クリス・サリバンがやっているクラブ「WAG CLUB」へ行くことだった。 どうやって行ったか覚えてないが、とさか頭のパンクス(わざと)にいろいろ聴いて辿りついた記憶がある。

クラブ店内では、かかる曲がほとんどラテン・ジャズ。ノーザン・ソウルやSKAをかじっていたなんちゃって野郎には未知の世界だった。しかも、かかる曲をピンクのズート・スーツを着て踊る店員が眩しかった。帰国後、原宿の「赤富士」をはじめ、ピンクのズート・スーツを探し始めた。

このグループはその後、 BLue Rondoとマット・ビアンコに分裂していくのだが、その頃には既にオイラにはワールド・ミュージックの波が押し寄せていた。なんちゃってじゃなく、のラテン音楽、そして様々な国の音楽がオイラを刺激してくれるのであった。

今回この デラックス・エディションを聴いて。もはやCD2のRIMIXはいらないだろう。ほぼ、マット・ビアンコのノリやん。今の時代にやることではないと思うが。30年前ならともかくとして...


恋の汚レコジャケ

 たじこ(多司子)に出逢ったのは、30年以上前。双方とも羽田空港に務めていた。オイラは、航空機を誘導する地上サービスの会社、彼女は空港内にある売店で働いていた。オイラがタバコを買いに行く度に少しづつ会話をし、仲良くなる。そしていつしか付き合うようになる。

たじこは、KORGIS「Everybody's Got To Learn Sometime」と言う曲が好きだった。オイラが「BEST盤のレコードならもっているよ」と話すと、身体を震わせて喜んだ。「ホント!今度あたしの部屋で一緒に聴こうよ!」と...

たじこの部屋は、エスニック柄のカーテンがオイラ好みではなかった以外、すっきりとしたオシャレな部屋だった。まだ残暑厳しいのに、灯を消し、キャンドルを囲みワインを酌み交わし、このレコードを聴く。そして二人は結ばれた....

たじこは言った。「今日の記念にジャケットに日付とあたしの名前をかいていい?」オイラは最初、レコジャケを汚されるのに躊躇したが、既にたじこは、サインペンで名前と日付を書き始めていた。「これで、このレコードを見るたびに、あたしのことを思い出すね。今度、このジャケットの真似を二人りでしようね!」と、どこまでも明るかった。しかし、たじことの関係は長くは続かなかった。そして彼女は会社を辞めてしまった。

たじこと別れて数年経ち、会社の先輩が週刊大衆をオイラに渡しこう言った。「グラビア・ページに出ている女、お前が昔付き合っていた女じゃねぇえの」と。ページをめくりオイラは自分の目を疑った。そこには間違いなく、あのたじこが上半身裸でオヤジと戯れていた。

この汚レコジャケを見る度に、青春の思い出よりも、週刊大衆のあのページを思い出してしまう。ある意味、恋の汚レコジャケだろうけども....